たかの雑多ブログ的な何か

読書記録とか電子工学とかPCまわりの話とかを備忘録として残したいって言ってるだけ

2024/12/17

日記は書くとどっかのタイミングですぐに捨ててしまう。書いたあとに過去の自分を思い返して恥ずかしくなるからだ。よくあんなのを何十年も取っておける人がいるなと思う。よっぽど自分が好きなのだろうか。

 

一昨日ヨルシカのライブに行った。前回のライブの再演なのだが、前回は2023年の2月だったらしい。正直あまり覚えていない。朗読は全く同じ内容だったらしいが、おおまかなあらすじ以外はあまり記憶になかった。

 

suisさんの声が少し大人びているような気がした。前日もライブだったし千秋楽だったから疲れてるのだろうか。

今回から声出しが可能になったのだが、前日までのファンの口コミでは声を出したい人と出したくない人でかなり賛否が分かれていた。

 

千秋楽はどうなるんだろうかと思っていたが、ライブの始めにsuisさんが公式声明のような形で「立って声出しするのは制限していません(大事なことなので2回言ってる)。全力で音楽を楽しんでください」とアナウンスしていた。初手が負け犬なので全力で手を上げながらカウントダウンしたかったのだが、周りはまだそこまでついてきてなかった。盛り上がる曲では終始suisさんが意識的に拍手を煽ってきてたのがちょっと可愛かった。

 

最近はAppleMusicを解約していて、あまりヨルシカを聞いていない。アルバムは持ってるのでスマホに入れれば聞けるのだが、なんか設定が上手くいかなくて聞けるようになっていない。

 

高校生のときに比べて、アーティストと自分との距離がすごく近くなっているように感じる。それだけ自分が人間のことを雑に見透かすようになって、魔法が解けてしまったからだろうか。そんな気がする。まだあの頃は曲を作ってる人も歌ってる人も神様みたいに思っていて、きっと全知全能だからあんないい曲が作れるのだと思っていた。恋愛も相手の存在が未知だからこそ燃えるものなので、それに近い感覚なんだと思う。大人になると相手のことをすぐに近似的に捉えてしまう。語彙力も当然増えてくるのですぐに何か都合のいい表現をしてテキストデータとして処理してしまう。判断の早さはお金を稼ぐには必要なことなのかもしれないが、魔法を味わい尽くすことはできなくなる。当時の感覚というものがどんどん薄れていってしまう。

 

教習所に通っている。3回ほど乗車した。乗る前に比べて恐怖感はやわらいだが、まだあまりカーブに慣れていない。教えてくれる人も、ぶっきらぼうな人と能力主義が根底まで染み付いている人は苦手だ。そういう人に当たっても、運が悪かったと思って処理している。下手に愚痴るとまた呼び込んでしまいそうな気がする。忘れることが肝要だ。

 

この1~2年で心の奥底にあるインナーチャイルドにひとしきり泣いてもらったので、もうあまり泣きたくなることはなくなった。自分の人生に必要な努力があるとすれば1つはこれだったのだと思いたい。自分の深い部分をコントロールできるので、癇に障ってキレるとかそういうのはなくなるし、相手の深いところにも寄り添えると思う。優しい人の前では常に優しくいたいじゃないですか。

攻撃的な人はそのエネルギーを資本主義に回収してもらえばいい。向ける方向さえ間違えなければ社会はきちんと回る。

 

自分が頭の悪いやつを見下していいと心の底から思ってるやつは、自分が見下されたときに激情する。たとえ相手がマウントを取ってきたとしても、それをマウントだと認識せずに話を進めれば、相手の反応が変わることもある。攻撃は跳ね返すよりも無効化させる、あるいは攻撃そのものが無意味であるという場を作ることこそが重要だと思っている。大抵そういう攻撃をするやつは、昔教師か親みたいな大人にバカにされるという攻撃を食らったからその反抗が終わってないだけだと思う。反抗期は自分で分析して自分で終わらせなければならない。

 

上に立つ人間ほど倫理観を求められるというのはよく言われる話だが、バイトで先生をやっているときは、知識は人をバカにしたり上に立つために持つものではないという、そういう佇まいを見せるのが大事だと思っている。人を見下したりバカにするために勉強するくらいならしないほうがマシだ。そんなことをやってる暇があればその相手を豊かにする方法を、その良いと思ってる頭で考えろよという話だ。